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| ■久米島と紬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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沖縄は、琉球国と呼ばれていた14世紀後半から、中国を中心に東南アジアの国々、日本本、朝鮮国などと貿易を行い、他の国の産物を必要とする国を相手に「中継ぎ貿易」をしていました。 久米島の城跡では当時の中国からの青磁などが出土しています。貴重な品物がたくさんもたらされ、同時に紬織りの技術もその頃伝えられたものと考えられます。そして琉球国は、工芸技術を磨いて工芸品を生産する方向へ大きく政策を転換しました。 |
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| ■久米島の生い立ち | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のことです。沖縄の織物の素材をみると、芭蕉・芋麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。 14世紀の末頃、『琉球国由来記』という本の中で、久米島の「堂の比屋」という人が、中国から漂流してきた人と親しく交流するようになり、その後中国に渡り、養蚕の技術を学んで帰ってきたと書かれています。しかし、なかなか技術が進展しなかった為、1619年、越前より坂元普基が国王の命を受けて来島し、蚕の飼い方や桑の木の栽培の仕方、綿子(真綿)の製法を伝え、その後、薩摩より友寄景友が来島し、紬の織り方と糸の染め方を伝え、技術的に従来にない飛躍的な進歩を遂げたと考えられます。 |
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| ■堂の比屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「堂」というのは、むかし仲里村にあったムラ(集落)の名前です。そのムラの草分の家を沖縄では「根所」とか「根屋」といいますが、その根所の男主人を「比屋」と呼びます。時代によってヘークーとかヒヤー(比屋)、ウフグロー(大五郎)などと呼びましたが、「大や」「大ころ」「大比屋」「大親」などと記録に残っています。 つまり、「堂の比屋」と呼ばれた人は一人ではなく、代々跡を継ぐ世代ごとに存在し、いろいろな方面で活躍していたようです。 |
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| ■貢納布としての久米島紬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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沖縄は1609年に薩摩より侵略を受け、その2年後の1611年からいろいろな種類の税金が言い渡されました。貢納布として、紬が記録に残っているのは1661年がもっとも古く、江戸で久米島の紬織りが、「琉球紬」という名で、もてはやされるのは、これから100年も後のことでした。 18世紀以後は、紬の生産が大変盛んになります。近代に入ってからの資料によれば、両村で紬799反を税金として納めています。この紬は、米の税金(租税)の代わりとして大半を納める仕組みで、これを「代納」といいました。これにより、米の税金は軽減されましが、15〜45歳までのすべての女性に課され、一種の人頭税とも言われ、たいへん負担の多いものでした。しかし、不平等なことに役人の妻などは免除になったのです。 |
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| ■貢納布としての紬から産業としての紬へ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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琉球王府時代からの貢納布制度は、1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県になってからも存続し、以後、納付された紬は、宮古・八重山の織物とともに、那覇税務署に納められてから大阪市場で売却されていました。 ようやく1903年(明治36年)になって、地租条例・国税微収法の施行で廃止されました。こうして織物税の制度が撤廃されて、人々は、自らの生活の糧を得る仕事として、再び紬を織ることに取り組むことになります。ここから、紬の産業がはじまりました。 1905年、蚕業取調のために来島した藤戸竹網氏(県の技師)が、白い繭の蚕種ヤマトムシグワを導入し、普及したことで次第に生産が増えるようになります。蚕業の講習会も開催されたり、蚕種の無償配布が試みられ、養蚕業への様々な改良が取り組まれました。 |
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| ■久米島紬の最盛期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 徒弟学校の最初の卒業生がでた1909〜1910(明治42〜43)年頃から、久米島紬はようやく活気づいて、年々生産高が増えました。徒弟学校は創立当時は生徒数20名足らずでしたが、1919(大正5)年には92名の卒業生を送り出し、189名が織物業に従事しているほどでした。とくに、第一次世界大戦(1914〜1918年)がはじまると、大戦需要の好景気に刺激されて、生産は飛躍的に上昇し、久米島紬は飛ぶように売れたといいます。 旧税制が廃止される前の1900(明治33)年の記録によると、当該年度の紬の生産高は1,590反とあります。それが10年後には過去3カ年の平均6千反と、約4倍に増えています。しかし、当時は生産者の組合もなく、原料真綿の仕入れはほとんど仲買商人の手を経由して入荷したため、掛け買いをおこなっていました。その条件は製品を仲買人に納入することだったので、仲買人の言い値となり、ほとんど手元に収益が残らない状況だったと語られます。 大正時代になると、久米島紬は大いに好況を呈するようになります。大正5年に9,130反あったものが、年々増え続け、大正12年には42,129反、その総価格は473,819円にもなり、久米島紬の一番の最盛期でした。 1916(大正5)年9月、久米島紬織物協同組合が設立され、品質管理をはじめ、原料・紬製造ならびに、染色・洗濯の改良、染料の保護、紬製品の検査、品評会、博覧会、共進会への出品などが行われるようになり、品質が向上し、生産が伸びるようになりました。紬は検査に合格したもので1反5〜6円、不合格品で2〜3円にしかなりませんでしたが、紬で生活を支えていた人もいるそうです。 当時の新聞には、発展の理由として第一に価格が安い割には各階層の需要に適して、需要の範囲が広いこと、第二におおよそ品質がしっかりしていること、第三に一見綿織物のようであるが、光沢があり洗濯のたびに絹織物特有の美が増すことなどがあげられています。その一方で、巾長が一定しない、重量が極端に軽いものがある、染色が統一される「百色百反」の状態にある、目が粗い上に打ち込みが甘いものがあることが欠点として指摘されています。 この間、久米島紬の好調な売れ行きを見て、国内における同種の織物産地である、山形県米沢市では「米流」、岐阜県竹鼻では「琉球絣」、愛知県では「久米絣」を市場に出しました。他に伊勢崎、八王子などでも久米島紬に似せた商品を市場に出しましたが、中には久米島紬とはほど遠い商品もありました。 しかし、第一次大戦後の経済恐慌の波で、1922(大正12)年を境に生産高はしだいに下降し、生産は低迷しました。その後の紬織物の不振により、久米島紬織物協同組合は解散にいたってしまいます。昭和初年までは両村合計10,000反以上を生産しましたが、1932(昭和7)年には両村合計10,288反、その平均価格は4円をわずかに超えるだけで、明治43年の4円50銭を下回るほどでした。昭和12年以後は3,000反から2,000反と落ち込み、比屋定や宇江城でわずかに織られる程度でした。以後、久米島も戦争にさらされる時代となり、機の音もしだいに聞かれなくなります。 |
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| ■戦後の復興 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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戦争中は機を織るどころではありませんでした。戦後、具志川村では上江洲の人が養蚕を始め、紬への復興の兆しが見え始めました。また、仲里村ではいち早く養蚕をはじめて真綿を自給し、紬を織りはじめたのは儀間、謝名堂、宇根、真謝、比屋定、宇江城の部落を中心に織られました。このような復興への動きの中、1951(昭和26)年12月13日に、紬の移出ならびに蚕糸についての両村協議会が開催されました。 仲里村において、しだいに原料の補給ができるようになり、研究者や政府関係者の指導助言のなかで、紬の復興がおこなわれました。そのような動きに対処して1970年1月に「仲里村久米島紬事業協同組合」が設立され、1975年には久米島紬は通産大臣より『伝統工芸品』に指定されました。また1976年には「久米島伝統工芸センター」が仲里村に設立され、その後、共同泥染場が建設されました。 |
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| ■歴史年表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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