久米島紬の起こりは、15世紀の後半に堂の比屋と呼ばれる非凡な人物がいて、中国から養蚕産業を学びこれを広めたことから始まったと言い伝えられています。
日本の紬絣技法は久米島を起点に発達し、沖縄本島、奄美大島を経て本土に伝えられ、大島紬、久留米絣、結城紬などのもととなり、日本全国に伝播されていきました。久米島紬が紬の発祥の地とも言われる所以です。いわば久米島は日本の紬の里です。久米島紬は、蚕から取った真綿でつむいだ糸を原料糸として、天然の草木、泥染めによって染色します。織りは、手投杼を用いて丹念に手織りで織り上げます。これらのすべては伝統を踏襲し、一貫した手作業を一人の織子が行うところにあります。
したがって、久米島紬にはつくる人の想い入れが込められ、紬糸のもつしなやかな風合いが着る人の着心地を満足させ、さらに気品をかもし出します。久米島紬は、昭和50年には、伝統工芸品として通産産業大臣の指定を受け、昭和52年には県の無形文化財として指定され、さらに平成16年には国の重要文化財として指定されました。
沖縄は、琉球国と呼ばれていた14世紀後半から、中国を中心に東南アジアの国々、日本、朝鮮国などと貿易を行い、他の国の産物を必要とする国を相手に「中継ぎ貿易」をしていました。しかし、16世紀に入るとヨーロッパの人々が、東南アジアまでやってくるようになり、そのころから後退して中国貿易だけになります。
久米島の城跡では当時の中国からの青磁などが出土しています。貴重な品物がたくさんもたらされ、同時に紬織りの技術もその頃伝えられたものと考えられます。そして琉球国は、工芸技術を磨いて工芸品を生産する方向へ大きく政策を転換しました。これらの工芸品は、中国や日本本土(江戸・大阪・鹿児島)への高級なお土産品となり、また貿易品にもなりました。
王府が工芸の生産に力を入れたことにより、17~18世紀にいたって花開きます。なかでも織物は種類が豊富で、琉球独自の文化とも数えれるようになりました。そして「染織文化」の名にふさわしく、琉球国のすぐれた文化として内外に知れわたるようになりました。
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のことです。沖縄の織物の素材をみると、芭蕉・芋麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。
14世紀の末頃、『琉球国由来記』という本の中で、久米島の「堂の比屋」という人が、中国から漂流してきた人と親しく交流するようになり、その後中国に渡り、養蚕の技術を学んで帰ってきたと書かれています。
しかし、なかなか技術が進展しなかった為、1619年、越前より坂元普基が国王の命を受けて来島し、蚕の飼い方や桑の木の栽培の仕方、綿子(真綿)の製法を伝え、その後、薩摩より友寄景友が来島し、紬の織り方と糸の染め方を伝え、技術的に従来にない飛躍的な進歩を遂げたと考えられます。
「堂」というのは、むかし仲里村にあったムラ(集落)の名前です。そのムラの草分の家を沖縄では「根所」とか「根屋」といいますが、
その根所の男主人を「比屋」と呼びます。時代によってヘークーとかヒヤー(比屋)、ウフグロー(大五郎)などと呼びましたが、「大や」「大ころ」「大比屋」「大親」などと記録に残っています。
つまり、「堂の比屋」と呼ばれた人は一人ではなく、代々跡を継ぐ世代ごとに存在し、いろいろな方面で活躍していたようです。
久米島仲里間切公事帳(雍正13年=1735年)
「沖縄は1609年に薩摩より侵略を受け、その2年後の1611年からいろいろな種類の税金が言い渡されました。
貢納布として、紬が記録に残っているのは1661年がもっとも古く、 江戸で久米島の紬織りが、「琉球紬」という名で、もてはやされるのは、これから100年も後のことでした。
18世紀以後は、紬の生産が大変盛んになります。近代に入ってからの資料によれば、 両村で紬799反を税金として納めています。この紬は、米の税金(租税)の代わりとして大半を納める仕組みで、これを「代納」といいました。これにより、米の税金は軽減されましが、 15~45歳までのすべての女性に課され、一種の人頭税とも言われ、たいへん負担の多いものでした。
しかし、不平等なことに役人の妻などは免除になったのです。各集落には、染物文子という係が指導や監督をする「布屋」(現在の公民館)という建物があり、そこが機織りの工房となっていました。
明治30年代にはいって、御用布の制度はなくなりましたが、その頃までに伝えられた久米島紬織りの技能の伝統は、その後も脈々と伝えられ、現在につながっています。
大正14年の久米島
琉球王府時代からの貢納布制度は、1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県になってからも存続し、 以後、納付された紬は、宮古・八重山の織物とともに、那覇税務署に納められてから大阪市場で売却されていました。
ようやく1903年(明治36年)になって、地租条例・国税微収法の施行で廃止されました。こうして織物税の制度が撤廃されて、人々は、自らの生活の糧を得る仕事として、 再び紬を織ることに取り組むことになります。
ここから、紬の産業がはじまりました。その頃久米島で広く飼育されていた蚕はシマムシグヮと呼ばれ黄色の繭をなす種類(品種は琉球多蚕繭とされる)でした。
シマムシグヮは解除が難しく真綿以外に利用しにくいと言われてきました。1905年、蚕業取調のために来島した藤戸竹網氏(県の技師)が、本土産の白い繭(島ではヤマトムシグヮと呼ばれる)を導入し、 普及したことで次第に生産が増えるようになります。
蚕業の講習会も開催されたり、蚕種の無償配布が試みられ、養蚕業への様々な改良が取り組まれました。そして翌年には、久米島尋常高等小学校に女子実業補習科が併置されました。
この補修学校が、 翌年には両村組合立女子工業徒弟学校となって独立します。徒弟学校は仲里村と具志川村の村境の儀間付近にあり、 紬織物の指導を中心とした実業補修教育を施し、両村の子女を養成するようになりました。
この頃、織機は地機から高機に、絣は手結いから絵図に移り変わりました。大正期においても久米島や八重山を除けば、 多くの地域で旧式の地機を使用していたといわれます。これらのことは久米島紬の振興に大きな力となりました。
徒弟学校の最初の卒業生がでた1909~1910(明治42~43)年頃から、 久米島紬はようやく活気づいて、年々生産高が増えました。 徒弟学校は創立当時は生徒数20名足らずでしたが、19199(大正5)年には92名の卒業生を送り出し、 189名が織物業に従事しているほどでした。
とくに、第一次世界大戦(1914~1918年)がはじまると、大戦需要の好景気に刺激されて、 生産は飛躍的に上昇し、久米島紬は飛ぶように売れたといいます。旧税制が廃止される前の1900(明治33)年の記録によると、当該年度の紬の生産高は1,590反とあります。それが10年後には過去3カ年の平均6千反と、約4倍に増えています。
しかし、当時は生産者の組合もなく、原料真綿の仕入れはほとんど仲買商人の手を経由して入荷したため、掛け買いをおこなっていました。その条件は製品を仲買人に納入することだったので、 仲買人の言い値となり、ほとんど手元に収益が残らない状況だったと語られます。
大正時代になると、久米島紬は大いに好況を呈するようになります。大正5年に9,130反あったものが、 年々増え続け、大正12年には42,129反、その総価格は473,819円にもなり、久米島紬の一番の最盛期で1916(大正5)年9月、久米島紬織物協同組合が設立され、品質管理をはじめ、原料・紬製造ならびに、 染色・洗濯の改良、染料の保護、紬製品の検査、品評会、博覧会、共進会への出品などが行われるようになり、 品質が向上し、生産が伸びるようになりました。
紬は検査に合格したもので1反5~6円、 不合格品で2~3円にしかなりませんでしたが、紬で生活を支えていた人もいるそうです。当時の新聞には、発展の理由として第一に価格が安い割には各階層の需要に適して、需要の範囲が広いこと、 第二におおよそ品質がしっかりしていること、第三に一見綿織物のようであるが、 光沢があり洗濯のたびに絹織物特有の美が増すことなどがあげられています。
その一方で、 巾長が一定しない、重量が極端に軽いものがある、染色が統一される「百色百反」の状態にある、 目が粗い上に打ち込みが甘いものがあることが欠点として指摘されています。この間、久米島紬の好調な売れ行きを見て、国内における同種の織物産地である、山形県米沢市では「米流」、 岐阜県竹鼻では「琉球絣」、愛知県では「久米絣」を市場に出しました。他に伊勢崎、 八王子などでも久米島紬に似せた商品を市場に出しましたが、中には久米島紬とはほど遠い商品もありました。
しかし、第一次大戦後の経済恐慌の波で、1922(大正12)年を境に生産高はしだいに下降し、 生産は低迷しました。その後の紬織物の不振により、久米島紬織物協同組合は解散にいたってしまいます。
昭和初年までは両村合計10,000反以上を生産しましたが、1932(昭和7)年には両村合計10,288反、その平均価格は4円をわずかに超えるだけで、明治43年の4円50銭を下回るほどでした。 昭和12年以後は3,000反から2,000反と落ち込み、比屋定や宇江城でわずかに織られる程度でした。 以後、久米島も戦争にさらされる時代となり、機の音もしだいに聞かれなくなります。
養蚕棚(仲里村 1960年)-“Ryukyu Curvey” より-
ユイマール館
戦争中は機を織るどころではありませんでした。戦後、具志川村では上江洲の人が養蚕を始め、 紬への復興の兆しが見え始めました。
また、仲里村ではいち早く養蚕をはじめて真綿を自給し、 紬を織りはじめたのは儀間、謝名堂、宇根、真謝、比屋定、宇江城の部落を中心に織られました。このような復興への動きの中、1951(昭和26)年12月13日に、 紬の移出ならびに蚕糸についての両村協議会が開催されました。
具志川村では、1952年に共同養蚕室の建設、翌年には婦人会を対象とした紬の復興に関する講習会、 1955年1月には久米島紬復興期成会が結成される運びとなり、村役所構内には共同染色場が建設されるなど、その取り組みは目を見張るものがありました。
ただし、紬の技術保持者は昭和10年前後まで生産に従事した人々に限られていたため、 若い人々を対象とする技術の伝授と普及が要請されました。こうして1954年6月に琉球政府の補助を得て、 村役所構内に具志川村女子工芸学院が開設されます。
生徒は中学校卒業の女子を入学させ、養蚕、織物、 洋裁を中心に一般教養も課し、終業期間中に紬の技術を習得させることを目的としていました。
しかし、1958年に琉球政府の補助打ち切りで経営が困難になり、廃止せざるをえなくなりました。仲里村において、しだいに原料の補給ができるようになり、研究者や政府関係者の指導助言のなかで、 紬の復興がおこなわれました。そのような動きに対処して1970年1月に「仲里村久米島紬事業協同組合」が設立され、 1975年には久米島紬は通産大臣より『伝統工芸品』に指定されました。
また1976年には「久米島伝統工芸センター」が仲里村に設立され、その後、共同泥染場が建設されました。1981年当時、生産の中心は仲里村で、真謝(144戸)、宇江城(48戸)、宇根(39戸)、比屋定(33戸)、 他の各地で、合計358戸により生産がおこなわれていました。
仲里村の紬生産の特徴は、生産の企業化・集中化を行わず、農業との共存を図りながら、農家が各々織機を一台置いて、 染色から製織まで一貫生産をおこなった点にあるとされます。また、このような生産者がまとまって協同組合事業を興した点が、生産の順調な伸びにつながったといわれます。
現在では一部工程の外注もみられますが、基本的な工程では一貫手作りという点で変わりはありません。したがって、そのような外注工程の技術者養成も必要となってきます。
最後に、1977年には「久米島紬」の技術が沖縄県指定無形文化財(保持団体)に指定され、 以後「久米島紬保持団体」において、伝承者養成事業が展開されています。また、久米島紬の組合員が活動する拠点となる「久米島紬ユイマール館」が1992年に落成し、さらに展示資料館が1998年にオープンしました。 今後、久米島紬のさらなる活性化を目指した諸事業が期待されています。
西暦 | 年号 | 事項 |
15世紀頃 |
- |
-堂の比屋が養蚕を中国から久米島に伝えたという |
1611年 |
尚寧23 |
久米島に毎年三貫余の綿子上納が定められる |
1619年 |
尚寧31 |
宗味入道(坂元普基)が久米島で栽桑、養蚕や製綿法を指導 |
1632年 | 尚豊12 | 友寄景友(酒匂與四郎右衛門)が久米島に八丈紬の技法を伝える |
1661年 | 尚質14 | 「御ご用紬綿子宰領のため上国・上納し帰島す」(『美済姓家譜』) |
1669年 | 尚貞1 | 「大和御用の雲織・島織紬三十五反の調方を両間切に仰せ付けられる」(『美済姓家譜』) |
1706年 | 尚貞38 | 「君南風、王へ島紬・白紬各一反、聞得大君へは白紬一反・綿子一把、真壁按司へ色紬一反・綿子一把を献上」(『女官御双紙』) |
1745年 | 尚敬33 | 「取切の結い方(絣くくり)の要領を教授」(『美済姓家譜』) |
1748年 | 尚敬36 | 「江戸上りに御用紬・綿子分を納品」(『美済姓家譜』/『公孫姓家譜』) |
1761年 | 尚穆10 | 桑木の植え付けを奨励(『美済姓家譜』) |
1872年 | 尚泰25 | 「島紬十反」尚泰王から明治天皇へ献上 |
1879年 | 明治12 | 琉球藩が廃され、沖縄県となる(琉球処分) |
1903年 | 明治36 | 地租改正により旧慣の租税制度(貢納布制度)が廃止される |
1905年 | 明治38 | 藤戸竹網が白繭の蚕種を久米島に移入 |
1906年 | 明治39 | 久米島尋常小学校に女子実業補習科が併置 |
1907年 | 明治40 | 仲里・具志川両村組合立の女子工業徒弟学校設立 |
1915年 | 大正4 | 沖縄県の「産業十年計画案」で保護奨励すべき産業に久米島紬が入る |
1916年 | 大正5 | 久米島紬織物組合が設立この頃に川端氏(大島出身)により締機の方法が伝授される |
1923年 | 大正12 | 紬織物の生産が最盛期を迎える(4万2千余反) |
1938年 | 昭和13 | 久米島紬生産遂年低下傾向 |
1945年 | 昭和20 | 第二次世界大戦(沖縄戦)終結久米島宇江城、比屋定、上江洲で養蚕開始。真綿自給、紬を織り始める |
1951年 | 昭和26 | 紬の移出・蚕糸についての両村協議会開催 |
1952年 | 昭和27 | 具志川村共同養蚕室建設 |
1954年 | 昭和29 | 具志川村女子工芸学院開設(~1958年) |
1955年 | 昭和30 | 具志川村久米島紬復興期成会結成具志川村共同染色場建設 |
1956年 | 昭和31 | 仲里村久米島紬工業組合設立(任意) |
1968年 | 昭和43 | 久米島紬株式会社創設(具志川村) |
1970年 | 昭和45 | 仲里村久米島紬事業協同組合設立 |
1972年 | 昭和47 | 日本本土復帰 |
1974年 | 昭和49 | 「久米島紬」県の伝統工芸製品に指定、「久米島紬」県営検査実施 |
1975年 | 昭和50 | 「久米島紬」通産大臣より伝統工芸品に指定 |
1976年 | 昭和51 | 久米島伝統工芸センター建設 |
1977年 | 昭和52 | 久米島紬事業協同組合に名称変更「久米島紬」県の無形文化財に指定、「久米島紬保持団体」認定 |
1978年 | 昭和53 | 協同泥染場設置 |
1983年 | 昭和58 | 久米島紬共同染色場建設 |
1992年 | 平成4 | 久米島紬ユイマール館建設 |
1998年 | 平成10 | 久米島紬展示資料館落成 |
2004年 | 平成16 |
「久米島紬」国の重要無形文化財に指定、「久米島紬保持団体」認定 |